戦国時代、松戸の相模台から市川の国府台一帯は関東三大合戦の一つと伝えられる国府台合戦の戦場となり、北条氏、足利氏、里見氏らが激戦を交えました。
<相模台の合戦>(第一次国府台の合戦と呼ぶ例あり)
足利義明は里見氏、真里谷氏の支援を得て鎌倉占領を目指しますが、同じ頃に鎌倉や江戸に勢力を及ばせた北条氏綱と緊張関係になります。のちに周辺武将の勢力関係に変化もあり義明と氏綱の対立は明らかになります。
天文7年(1538)10月、義明は里見・真里谷らの軍勢1万を率いて国府台城に入ります。氏綱は一族軍勢2万と共に江戸城に入ります。
足利軍は江戸川を渡る北条軍を迎え撃つ作戦をとるが、里見氏は市川方向に軍勢を移してしまいます。
10月7日、川を越えた北条軍は松戸城(現:戸定邸)を経て相模台で足利軍と衝突します。軍勢の差で北条軍が優位、義明と弟の基頼、息子の義純らが戦死します。合戦の結果、北条氏の勢力は房総半島の大半に及ぶようになりました。こうして千葉氏が北条の傘下となったため千葉氏重臣の小金城主高城胤吉も北条勢となりました。
<経世塚>
相模台の合戦で敗れた足利軍。足利義明の子、義純も壮烈な死を遂げました。これを知った義純の乳母は大変悲しみその跡を弔おうと相模台に向かい一人訪れ塚の前で泣きあかすとその夜中、夢の中に血まみれの義純が現れ乳母を慰めました。夜が明け乳母は泣く泣く相模台を離れたのち尼となり菩提を弔ったといいます。この悲運の義純と戦死者を葬った塚を「経世(けいせい)塚」と呼びます。のち当地に陸軍工兵学校が作られた際、この塚を知らずに壊してしまったところ不思議な事故が続いたため、再び塚を作り供養されたと言われています。(大学構内のため見学には許可が必要です)
<国府台の合戦>(第二次国府台の合戦と呼ぶ例あり)
永禄7年(1564)1月、里見義弘は上杉謙信を加勢のため1万2千の軍勢で出陣し1月4日国府台城に入ります。対する北条氏は軍勢2万で江戸城から出陣し江戸川を矢切付近で渡ると、台地に上がる坂(現:野菊の墓文学碑付近)の途中で里見軍の反撃に遭います。結果、敗れた北条側は退却と見せかけて翌日未明に再び江戸川を渡って里見軍を夜襲します。前日の戦勝に気を許していた里見軍は重臣を奪われたと伝えられます。
<国府台城址>
市川市の里見公園が国府台城址にあたり、後世に建てられた里見軍将兵の供養塔がある。