梨の懸け橋

二十世紀梨誕生の地、松戸

梨の苗木の発見 Discovery of a pear tree sapling

▲ 梨の花

二十世紀梨は、明治21年(1888年)に、大橋村(現在の松戸市二十世紀が丘梨元町)で発見されました。見つけたのは、当時13歳の松戸覚之助(かくのすけ)。親戚の家の庭で偶然苗木を発見しました。
覚之助少年は、その苗木を持ち帰り、父の伊佐衛門が経営する梨園「錦果園(きんかえん)」で大切に育てたそうです。
発見から10年後、ついに梨が実り、果実を食べてみると芯が小さく、果肉は白く、上品な甘みと滴るほどの水分を含んだとてもおいしい梨でした。

当初は「青梨新太白(あおなししんたいはく)」という名前をつける予定でしたが、同業者の渡瀬寅次郎に相談すると、その渡瀬は東京帝国大学助教授の池田伴親に相談しました。間もなく訪れる20世紀に、これ以上の梨が現れることはないだろうという意味で「二十世紀」という名前がつけられたとのことです。
その後、多くの苗木を生み出した原樹ですが、昭和9年(1934年)には少しずつ弱ってきました。そのため、覚之助は、千葉県高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)の三木泰治教授と相談し、国の天然記念物として保存することにしました。

昭和10年(1935年)、多くの苗木の親となった原樹は天然記念物に指定されました。
しかしその努力も虚しく太平洋戦争中の昭和19年(1944年)11月22日の夜、本土初空襲で被害を受け、3年後の昭和22年(1947年)には、残念ながら枯れてしまいました。

二十世紀梨が鳥取県に渡ったルーツ Why “20th century” pears are cultivated in Tottori prefecture?

▲ 袋掛けされた二十世紀梨

鳥取県に初めて二十世紀梨の苗木を持ち込んだのは、明治37年(1904年)の春、松保村(現在の鳥取市桂見)で農業を営んでいた北脇永治(当時26歳)が、松戸覚之助が経営する「錦果園」から10本の苗木を購入し、果樹園に植えたことが、鳥取名産「二十世紀梨」の始まりとされております。
永治は、二十世紀梨の育成に没頭し、自らが経営する果樹園を拡張したことから、県の試験場が苗木を育て農家に配り始めたこともあって、二十世紀梨の栽培は次第に鳥取県全体に広まりました。

ところが、「黒斑病」という果実が腐り落ちてしまう病気の発生により果実の収穫ができない年もあり、他県では大正2年(1913年)頃から栽培を中止する県も出てきたそうです。 また、大正12年(1923年)から3年連続で暴風や干ばつなどの災害に加え、黒斑病が猛威をふるい、鳥取県内でも栽培をやめてしまう果樹園も出てきて、二十世紀梨の壊滅の危機に陥ってしまったのです。
この危機に永治は、国から植物病理学者のト蔵梅之丞を招いて、黒斑病を防ぐ指導を受けます。続いて各地に黒斑病を防ぐ組合を組織するとともに、組合をまとめて鳥取県二十世紀梨黒斑病防除組合連合会をつくり、県内一斉の薬剤散布を実施し、黒斑病防除に効果をあげました。

大正14年(1925年)には、鳥取県梨共同販売所が設立され、永治は初代所長となり、二十世紀梨の商品価値を高めるため、全国51都市に指定の店を設け、専売方法をとって販売ルートの拡大を図るなど、様々な工夫をとり入れました。
また、二十世紀梨専用の肥料をつくることにも力を注ぎ、品質の向上にも取り組みました。 こうして、永治は「二十世紀梨育ての親」とまで言われるようになりました。

現在、鳥取県の二十世紀梨流通量は、国内生産の約半分(0.9万トン)を占め全国第1位であり、台湾・香港・アメリカなど海外にも輸出されています。 永治が鳥取へ持ち帰った苗木、現在栽培されている二十世紀梨の祖先にあたる親木は、平成11年(1999年)に開園した「とっとり出会いの森」(鳥取市桂見)で今も元気に実をつけているそうです。

「梨(あり)の実行流宣言」 鳥取県倉吉市との梨の交流について

倉吉市の概要 About Kurayoshi city

倉吉市は鳥取県の中央部に位置し、二十世紀梨の産地として知られる東郷町などを要する東伯郡(9町村)からなる中部広域生活圏の交流拠点として、古くから産業・経済・文化・交通行政等の中心的役割を担いつつ発展してきた。鳥取市、米子市に次ぐ人口約5万人(平成16年当時)の都市です。

交流の始まり How the “pear” exchange started

▲ 倉吉パークスクエア(鳥取県倉吉市)

倉吉市と松戸市との公式交流は、平成13年(2001年)4月に鳥取二十世紀梨記念博物館が倉吉パークスクエア内にオープンしたことから始まり、オープニングセレモニーには、松戸市から梨生産者、市民団体及び行政等関係者など100名余り参加し、セレモニーを大いに盛り上げました。
この梨記念館でのセレモニーを契機に、松戸市の小学生が夏休みに倉吉市を訪問し、翌年には倉吉市の小学生が松戸市に訪問する、両市の小学生相互訪問交流が開始され、現在も続いております。

また、平成14年(2002年)には鳥取県から松戸市の二十世紀公園に「二十世紀梨感謝の碑」、大橋小学校に「二十世紀梨の木・4本」が寄贈され、現在、大橋小学校では、毎年3年生の課外授業で梨の生育が行われ、二十世紀梨を通じた鳥取と松戸の交流の絆を深めております。

平成16年(2004年)には、梨の伝来をテーマにした演劇「梨の懸け橋」を松戸市民劇団と
倉吉市民影絵劇団みくが合同で公演をいたしました。

「梨の懸け橋」公演 ○倉吉公演2004年7月25日 ○松戸公演2004年10月10日 ○奈良公演2005年7月17日

倉吉市民影絵劇団みく NPO法人松戸市民劇団

交流宣言の目的 Purpose of the exchange declaration

倉吉市は鳥取県の二十世紀梨生産の中心であるとともに、打吹山や白壁土蔵群などの豊かな自然を有し、また江戸時代からの古い町並みが現代に残る情緒あふれる都市であります。 この倉吉市と交流宣言を行うことにより、産業・観光・文化・スポーツ等多面的な交流を図るとともに、併せて鳥取県との更なる交流を推進するものです。

交流宣言の調印 Signing ceremony of the exchange declaration

平成16年(2004年)7月25日、松戸市長、倉吉市長、松戸市議会議長、倉吉市議会議長との間で、鳥取県知事立会いのもと、宣言書に調印が行われました。

梨(あり)の実交流宣言 The pear “Ari-no mi” exchange declaration

明治21年、松戸市で発見され、明示31年結実した新種の青梨は、二十世紀を代表する梨になるとの思いから「二十世紀梨」と命名されました。
明治37年、鳥取県に導入された二十世紀梨は、多くの関係者のご努力により、国内はもとより世界に誇れる特産品となりました。
平成16年、二十世紀梨が鳥取県に導入されて100年の節目を迎えるにあたり、松戸市と倉吉市は、先人がなしとげた「梨(あり)の実」による友好関係を未来に伝え、これを様々な分野で発展させるため、市民相互の交流を永続的に推進することを宣言します。

梨の実交流宣言梨の実交流宣言