"江戸時代の俳人・小林一茶は、よき理解者であり庇護者(パトロン)であった馬橋の油屋、大川吉右衛門こと俳人の大川立砂(りゅうさ)の元へ度々来訪しています。
立砂と一茶は親子ほどの年齢差がありましたが生涯にわたり交友が続きます。
のちに立砂は寛政11年(1799)没、萬満寺の墓所に葬られました。
立砂の没後は子の斗囿(とゆう)が家業の油屋と俳句の後継者となり引き続き一茶を支援します。
文化8年(1811)一茶は立砂の十三回忌法要に訪れて句も残します。
天保4年(1833)に斗囿は没、立砂とともに萬満寺の墓所に眠ります。
立砂・斗囿の大川家はのちに絶えてしまい墓所も整理されますが、萬満寺には現在も大川家先祖代々の墓があり横には「栢日庵立砂・斗囿の碑」が建てられています。"