足利義明は天文7年10月7日北条氏と相模台で戦い、子の足利義純が壮烈な死を遂げました。これを知った義純の乳母れんせいは大変悲しみ、その跡を弔おうと相模台に一人訪れて塚の前で泣きあかすと、その夜中、夢の中に血まみれの義純が現れ乳母を慰めました。夜が明けて乳母は泣く泣く相模台の山を離れたのち、尼となって菩提を弔ったそうです。この悲運の義純を葬った塚は「経世(けいせい)塚」と呼ばれました。のちに相模台に陸軍工兵学校が作られた際、この塚を知らずに壊してしまったところ、不思議な事故が続いたため、再び塚を作り供養されたと言われています。現在でも毎年10月には慰霊祭が行われます。(現在の塚は後世に複製されたものです)